☆祖父・父からの授かりもの☆
 父のこと-その2
祖父の作った下駄は、単価は安いのですが、一般規格の通常の下駄より小さくて低いのです。それで、お盆と師走、正月には貨車十台以上を一気にデパ-トで売ってしまうのですが、年を通して売れたわけではありません。そこで父は、規格商品で技術もすばらしい他社の下駄を祖父に話して浅草の営業所に送らせ、一般販売をしていました。祖父から言われた値段に一割を載せて販売し、その一割が自分の取り分でした。
他社の下駄の買い付けに、父に連れられて行ったことが何度もありました。そんな時父は、数千足ある下駄の山から規格に合わない下駄のみ引き出すのです。物差しで計るとわずかに規格に足りません。そこで交渉は父の言い値で決まります。凄い速さで二十足毎に縛ってある下駄の束積みの山から見分けます。これには幼いながら驚愕し、尊敬の眼差しで父を眺めたものです。これは相当な経験から出来た事ではないかと思っています。経験は平面的な知識とは違い奥行きになる容積があります。それが頭の中で広がり、思考に要する時間が短縮され瞬時にひらめきとなって出るのではないかと思っております。現在、経験と感性からなる「叡智」で判断出来るようになったのは父からの贈り物です。
そんな父も、戦争に招集されアジアの地に赴いたのでした。ただ昭和初期に運転免許を持っていた事が幸いし、戦地には行かず後方部隊で物資輸送をしていたそうです。そのまま終戦になりましたが、抑留されフィリピンにある「チャンニ-刑務所」で二年間を過ごしたそうです。抑留生活中に面白いエピソ-ドがあったことを父から聞きました。捕虜の中から大工、家具職人など職人だけを集め「カーペンタ-ズ」と言う組織を作ったのです。ベットから家具、トランク、マージャンパイから台に至る木製品を作り、片言の英語を駆使し、看守のイギリス人と交渉し、残飯と引き換えたそうです。おかげで捕虜につきものの栄養失調とは無縁だったということ、いかにも父らしい事です。
昭和二十一年十二月父が日本に帰ってきました。下駄製造販売であげた利益を資産株にして持っていましたが無に帰し、祖父の財産は長兄が継いでいましたから、一から出直し、となってしまったのです。さすがの父も直ぐに思うような商売には漕ぎ着けませんでした。
昭和二十四年株式会社を設立しました。父には秘めた投資事業が見つかったのです。知人友人から借り集めた資金を元に、更に父の兄の信用も利用して、土浦信用金庫から何とか三百万円(その頃の一般的な給料は三~五千円)の融資に漕ぎ着けたそうです。当時土浦市には二十三の下駄製造会社がありましたが、履物は靴の時代となり下駄は斜陽産業になると見越こし、作る足数が少なくなり、製造会社でも早く在庫を売りたかったのです。これを買占め値上がりを待って放出するというのが父の目論見でした。三百万円では一気に買占めることは出来ませんでしたが、一部売ってはそれを見せ金に更に銀行から融資を引き出しながら、昭和三十年初期とうとう土浦市にある二十三社の下駄十五万足の在庫を買い占めてしまいました。三年後に十万足程度売却し、元と儲けとおつりがくるほど儲かったそうです。

8/01/2008
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