☆祖父・父からの授かりもの☆
 祖父のこと
よく父の背中を見て育つといいますが、私の場合は、祖父の背中父の背中を見ながら育ったようなものです。祖父も父も経営の才に恵まれていましたが、勿論紆余曲折がありました。それを身近に見ながら育ったということは、今にして思うと、得がたい授かりものだったような気がします。
祖父は元が百姓の出であり、百姓といっても山林を数百町歩有しておりました。先祖の代からであり、長男として生まれた祖父は、四十を過ぎてから「百姓が出来れば何でも出来る」と言って、農家を止めて家族ごと、いや祖父の父である曾祖父を残し、土浦に移り住みました。明治から大正時代にかけての事でした。
土浦に移住した祖父は下駄製造業を起こします。まず下駄の元である桐の木を、立ち木買いすることを考えたそうです。桐の木は草木類で、一般の樹木と比較して何倍もの成長力があります。長径三十センチメ-トルを玉木と言い、それが二年後には一石がとれるまで成長します。一辺の長さが三十センチメートルの正四角形です。百姓の知恵を生かし、桐の木を所有している農家から競争相手より一割高く買い取り、二年間立ち木にしておいてもらい、肥料代、手間代を支払い、更に二割高く支払います。こうして、効率よく安い原価で原材料を手当て出来たのです。僅か十年ほどで、のべ百人以上の職人を使う日本一の下駄製造会社を作ってしまいました。
祖父は下駄を作る技術はありませんでしたが、素人の強みで、職人には考えもつかない発想を持っていました。桐の木は成長は速いのですが、軟らかく軽い事が長所でもあり欠点でもあります。軟らかい欠点が、虫の攻撃を受け無数の傷になり、この部分は使えません。しかし祖父は元来捨てていた傷の部分を買い集めたのです。それがくず下駄なのです。傷の部分を丁寧に削り取り埋め込むアイデアとか、傷を隠す為に矯木(きょうぎ)という綺麗な柾目の通った桐の木を紙のように薄く削り下駄の表に張る、など工夫を伴ってのことです。磨り減った桐下駄の歯を平らに削り、同じ桐の木を「継ぎ歯」する技術を開発し、これを他の小売店全てに教え、販売だけではなく手直しする事でお客様と会話する社交術も加えたのです。傷下駄を隠す為に、新たに静岡の塗装会社に依頼し「静岡塗り」を開発しました。静岡塗りは有名な塗りより、五分の一程度の値段でした。
それやこれやで、普通の下駄の五分の一程度の原価ですから、履く人にも安く売れるし人気も出て利益も相当なものでした。
昭和三十年代、私は毎日保育所から帰ると直ぐに下駄職人の近くで、ずーッと見ているのが楽しみでした。桐の木の甲羅と言う、桐丸太を下駄の長さに切断し、切断した丸太を四分の一に割って芯部分を平らにした亀の甲羅に似ているもの、から面白いようにいろいろな道具や刃型を使いこなして、いつの間にか下駄の形が出来る様など、毎日が新鮮でした。

7/30/2008
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