サイトのタイトル「豊穣」、豊穣とは自然から授かった「汗をかいたご褒美」です
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経験と叡智が生きる職人芸


  経験と叡智が生きる職人芸にについて少し触れてみたいと思います。調理の技、水作りの技、動物を飼育したり植物を栽培する技についても職人芸に支えられていることが沢山あります。私は、『さじ加減』 『好い按配』 ということよく口にしますが、職人芸の部分を指して云っているのです。理屈だけでは到達できない世界を始めて経験したのは、父のもとで桐下駄の製造に関わっていた時でした。

   その頃桐下駄は斜陽産業でしたし、さればといって大きな桐の木を板にする桐タンスは大きな工場が必要なのです。従って父の手伝いとはいっても、一生をかけてこの商売をするつもりなどありませんでしたし、ほんの腰掛と言うか、これからの商売の慣らし運転のつもりだったのです。ましてや桐材に関する技術など覚える気もありませんでした。それがそうも云っていられなくなったのは、なかなか従業員が集まらなかったり定着しなかったからです。斜陽とはいっても商売を続けている以上桐の板材は必要です。そこで工場長について技術を覚えることにしたのです。

  先ず、大きな直径一メートルの丸のこぎりを扱う技術を覚えなければどうにもなりません。そこで、工場長が丸太を引くときには、必ず自分の仕事を止めて目を皿のようにして凝視し、丸のこぎりの丸太を引く音、丸太を扱うしぐさ、力加減など、全てを吸収しようとしました。何回か工場長に頭を下げお茶菓子を持参して、丸のこぎりを扱わせてもらいました。大きな太い桐丸太は、二人がかりですが、その点私の場合は馬鹿力を持っており一人で十分でした。馬鹿力プラス微妙な桐丸太の持ち方、切断する角度、体の使い方、はほどなく吸収できました。

  本当に大変なのは、丸のこぎりをグラインダ-で削り、研ぐ技術でした。これほど難しいものとは生まれて初めて知りました。

  丸のこぎりには表と裏があります。表と裏の微妙な硬さを覚えなくてはなりません。「そり」と言って、表がほんのちょっとこれもまた微妙な状況で、裏より硬くする事で裏側に丸みを付けて表側をほんの微妙に弓なりにするのです。「そり」を利かすには、カナズチで、ぎざぎざの歯の外側を強く叩き、中を加減しながら弱く叩くのです。全てが感覚の技術なのです。もっとも微妙な部分は、丸のこぎりのぎざぎざの歯の部分の、表と裏の部分の隙間を作る「道だし」と言う、微妙なそれこそが「さじ加減」であり、「好い按配」の部分なのです。ぎざぎざの三角の山になっている歯の部分には、複雑で微妙な仕掛けがあったのです。

  「道だし」の部分の基準値となる道具があり、長さ5cmの、幅2cm、厚さ1mmの金具で、いってみれば定規です。その定規を丸のこぎりのぎざぎざ部分に当てて「道だし」をするのです。先の平らなアヒルのくちばしのようなペンチのような挟む道具でぎざぎざ歯の部分を、外側に曲げます。定規に触れると「カチッ」とほんのちょっと音がします。定規の下の部分に触れるのです。その音が答えになるのです。手に強く感じた時には曲げすぎであり、音がしないときには曲がりが足りません。ほんのちょっとの手の感覚と音を感じなくては「道だし」は失敗します。表側数百個、裏側数百個のぎざぎざの歯を全て調節します。その後今度は、グラインダ-で研いた三角のギザギザ歯先の表と裏をヤスリで、同じ角度で研ぐのです。

  朝早く起きて練習、昼の食事も短くして練習、午後三時のお茶の時間もありません。夜は、遅く時間を忘れて没頭の一年間でした。考えながら「工夫」する訳です。「考えながら工夫する」事が続く事で「微妙な感性」が芽生えるのです。

  このほかに、「のみ」だけでも数十種類、「カンナ」も数十種類、その刃先を研ぐ砥石の種類が数十種類もあるのです。これらを組み合わせて使い分けるのも、複雑で微妙な技の世界です。

  これらの職人芸はどんどん消えていきます。機械による、同一規格の、大量生産を目指すのが現在の工業であり産業です。これはこれで便利さをもたらしました。現在車なしの社会は考えられません。家電製品なしの生活も考えられません。しかし、そのような現代技術一辺倒であっていいわけがありません。かつて職人芸を支えていたのは「感性を研ぎ澄ませて習得」する文化でした。もっと広くは、努力を惜しまない、工夫を重ねる、ものを大切にする、物質だけが全てではない、とする日本の精神文化がありました。これらを全て捨ててしまっていいわけがありません。

  また、現在技術の通弊として、単一目的志向であることがあげられます。丸のこぎりの例に戻ると、現在では帯のこぎりです。帯のこぎりは、歯が分厚く、歯の先にダイアモンドが付けられ、微調整は必要ありません。人間の作業を(時間掛ける単価)でコスト換算するとこの方が安上がりになるかもしれません。コストを下げるとなると、それだけが唯一の目的になってしまいます。しかし帯のこぎりでは、桐材の良質の部分が「おが屑」になってしまいます。「おが屑」の排出量は丸のこぎりに較べて2倍にもなります。これだけならまだしも、排出物が環境に負荷を与え、人間の健康に害を与える例が多発しています。これらがコスト天秤の片側から外されているのです。

  昨今「環境コスト」という考えが語られるようになりましたが、これで事態を打破できるかどうか予断を許しません。しかしこのままでは立ち行かない、社会がますますイビツな方に向かっている、という認識はひろがっていると思います。

  私は過去30年、調理、水作り、動物を飼育したり植物を栽培することに没頭してきましたが、桐板の技に触れたことが貴重なバックボーンになっています。本や人に聞いて得られた知識も沢山ありますが、肝心なところは感性を研ぎ澄ませて習得するしかなかったと思います。『さじ加減』 『好い按配』 という曖昧模糊としたところに、ものの本質が潜んでいることが非常に多いと感じています。


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10/26/2008